宇佐市最後の空襲畑田空襲(S20.8.8)&小倉陸軍造兵廠糸口山製造所
掲載日時:2015/8/25 14:39
宇佐はたびたび米軍の空襲を受けました。
最後の空襲は昭和20年8月8日、B 24爆撃機や小型機による空襲で
畑田空襲と呼ばれていますこの空襲で、畑田地 区の家屋41戸70棟を消失6名が亡くなりました。
当時9歳だった宇佐市畑田出身の岡部剛さんは、畑田空襲に遭遇し
危機一髪で難を逃れました。その時のお 話を伺いました。
B29による主要都市への空襲を想定し昭 和19年3月
小倉陸軍造兵廠の第二製造所が宇佐市内西側、糸口山の台地へ疎開することが決まりました。
建設工事は急ピッチで進められわずか半年で完成しました。
中学校や女学校の生徒をはじめ、女子挺身隊や遠くは七高(現在の鹿児島大学)の学生まで動員され、機関砲などの武器を製造していました。
昭和20 年8月1日の糸口山 製造所の工員数は、1万92人だったという記録が残っています。工員が1万人 を超える広大な工場 でありながら、空襲 を受けることはありませんでした。
【取材協力・監修】 岡部 剛 沢田 昭治
【引用 元】 「宇佐航空隊の世界V」 「新・宇佐ふるさとの歴史」
豊の国宇佐市塾塾生 藤原 耕 織田 祐輔
【写真引用】国土地理院 宇佐市民図書館
最後の空襲は昭和20年8月8日、B 24爆撃機や小型機による空襲で
畑田空襲と呼ばれていますこの空襲で、畑田地 区の家屋41戸70棟を消失6名が亡くなりました。
当時9歳だった宇佐市畑田出身の岡部剛さんは、畑田空襲に遭遇し
危機一髪で難を逃れました。その時のお 話を伺いました。
B29による主要都市への空襲を想定し昭 和19年3月
小倉陸軍造兵廠の第二製造所が宇佐市内西側、糸口山の台地へ疎開することが決まりました。
建設工事は急ピッチで進められわずか半年で完成しました。
中学校や女学校の生徒をはじめ、女子挺身隊や遠くは七高(現在の鹿児島大学)の学生まで動員され、機関砲などの武器を製造していました。
昭和20 年8月1日の糸口山 製造所の工員数は、1万92人だったという記録が残っています。工員が1万人 を超える広大な工場 でありながら、空襲 を受けることはありませんでした。
【取材協力・監修】 岡部 剛 沢田 昭治
【引用 元】 「宇佐航空隊の世界V」 「新・宇佐ふるさとの歴史」
豊の国宇佐市塾塾生 藤原 耕 織田 祐輔
【写真引用】国土地理院 宇佐市民図書館